多様な価値観を如何に共有するか

投稿者: KAI 投稿日:

本日は、思いのままに書き記していこうと思います。

唐突ですが、私はエホバの家庭で、所謂宗教二世として生まれ育ちました。

齢17〜18位の時に教団の体制に疑念を抱き離反しています。

それ以降、エホバの証人の集まりに行ったことは御座いません。

この辺りの事情は、以下のリンクを見ていただければ判ずると思います。

興味のある方はご覧ください。

https://note.com/kaika_87/n/n1b66406dd942?sub_rt=share_b

今日私が書きたいことはタイトルの通り、”生育環境が全く違うパートナーが生涯を共に過ごすことが出来るのか?”

という点です。ここでパートナーと記したのは、必ずしも異性のパートナーのみを想定していないからです。同性であっても全く本議題には影響はないです。

共有とは、許容とも置き換えても良いでしょう。又、価値観は世界観と捉えてもいいです。

例えば、無神論を奉ずる(という言い方が適切かは不明ですが)人の世界観では、神を信じる人の世界観とは見える世界が違うと思うのです。

無神論とは神はいないと信ずる事であり、有神論と交わる事は決してないのです。

これは極端かもしれませんが、国際結婚であれば異文化や異なる宗教同士が同じ屋根の下で暮らす事になるでしょう。

ユダヤ教信者と仏教徒は世界観を分かち合えるのか?ムスリムとアミニズムは手を取り合えるのか?

ふと、そんな疑問を抱く事があるのです。

そして、「どちらかが相手に寄り添う」か「元々似た境遇の人同士が繋がる」という何の変哲もない帰結へと導かれてしまうのです。

ムスリムの男性と結婚した女性はイスラムに改宗するかもしれません。

また、仏教徒であればお墓参りや仏壇を供えることに抵抗のある偶像忌避者と打ち解けることもないでしょう。日本であれば罰当たりな人と思われる可能性もあります。

私は誰か生涯を共にするパートナーを求める時、ふと上記のような出来事が起こりうるのではと感じるのです。

“私が妥協すべきか、相手が妥協すべきか”

価値観(世界観)を強要することは、精神的な暴力に等しい蛮行であると思うのです。

例として、私は墓参という習慣に馴染まないため、もしパートナーと共に墓参りをお願いされたら行くべきか否か迷います。

過去にお付き合いしていた女性とは、その母親のお墓参りに同行したことはありました。

然し、それは私の宗教的信条とは相容れない行為であることは明白です。

と同時に、その行為により相手方のご家族とは親密な関係を築くことが可能であることは、経験上周知しているのです。

幼少期の記憶も共有していない大人(30代や40代を想定)と、これから共に過ごす記憶を作り出さなければならないのです。

そして、その未来を築く為にお互いの過去を語り合い、想像上の過去の記憶を共有していくのでしょう。

その時、私達は互いに堅固な自らの”過去”に醸成した価値観を歪めず、真実を相手に伝えられるでしょうか?

価値観は過去の記憶によって形作られるのは誰もが否定しない事実でありましょう。

では、未来の(これから築かれていく)経験によって人は変われるのか?

私は変われると信じたいのです。

本日は取り留めもない文を書き記しました。この問いに関して、私は明白な回答を持ち合わせておりません。

そして、これからも最適な価値観の共有を模索していくことでしょう。

私なりに出来る価値観の共有

現実問題として、私がこれからお付き合いをするとしたら、以下の点に注意を払いたいなと思います。

  • 自分にとって不利な情報も伝える
  • 相手が望む情報は正確に伝える
  • 自分の価値観でどうしても譲れないものは妥協しない

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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